御言葉によって育てられる 2013年12月8日主日礼拝

聖書:使徒の働き20章31~35節

エルサレムへと向かうパウロは、ひとり立ちしたとは名ばかりのエペソの教会の人々にむかって、最後の言葉として、語りだすのです。私が出発した後に、教会は、外からも、中からも、混乱に陥れようとする力によってふるわれる。そして、その力は、弟子となったひとり一人にまで、忍び寄って引き込んでいこうとするというのです。だからこそ、涙と共に、あなたがたに訓戒し続けたことを思い出してほしいというのです。パウロが、3年間の間に語り続けていったものは、まさに主イエスの十字架と復活の出来事、すなわち福音を語り続けたのでした。

わたしたちも、出会う喜びと、別離の悲しみを、繰り返しながら生きているのでしょう。

わたしたちが人を育てていくとき、いつも見据えていかなくてはいけないことは、いつか自分の手から離れてひとり立ちする時期があるということです。そのときに、何を手渡していくかが鍵になるように思えるのです。すべての人に救いをもたらす神の力と、御言葉とにゆだねると、パウロは語ります。「委ねる」とは、それを信頼し、自分自身が抱えていたものを、目の前に置くという行為からはじまっていきます。パウロ自身が、自分よがりに神を知り、かたくなな思いを抱え、人々を裁いてきたこと、しかし主が出会ってくださり、数々の恵みの出来事を、起してくださったことを振り返るのです。

限りある命の中で、まず自分の限界を知り、永遠の神の国を受け継ぐ人を育てていくことの困難さを感じます。 一方で、手渡されていった御言葉が、その人を育成し、造り上げていくことを、見ることができるのです。だからこそ、教会は、小さな命の始まりから最後の時まで、御言葉が、人を育て、人を造り上げていくことに信頼し続けていくのです。毎年、毎年、世界中で、繰り返し行われるクリスマス礼拝で、御言葉によってはじまる神の起こされる出来事に、加えていただきましょう。