朽ちることのない方 2013年7月21日 巻頭言

聖書 使徒の働き 13章32~39節

聖書が記された世界では、今のような保存技術もなく、強い日差しの中で、物が腐ったり、朽ち果てることは、見慣れた風景であったことでしょう。生命の無いものは、水、木片、鉄のような金属さえも朽ち果てていきます。人間の、この世での肉体も、残念ながら、生命を失うと、同様に朽ち果ててしまいます。生命の有無が「カギ」になるのでしょうか?

パウロとバルナバは、キプロス島に渡り、さらに伝道活動の拠点を、小アジアへと進めていきます。二人は、安息日に人々の集まる会堂に行って、一緒に礼拝を守るのです。律法と預言書の朗読があり、「この人たちのために奨励の言葉があったら、どうぞお話ください」という勧めの中で、パウロが立って語りだすのです。ペテロ、ステパノ、そしてパウロが福音を語るとき、そこに耳を傾けている人々が、子どもの頃から慣れ親しんでいるイスラエルの民の歴史からはじめていくのです。しかし、その歴史をおこし、その歴史を導いておられたのは、私たちの神であることを語るのです。同じように、教会においても、語られる福音の出来事、またそれぞれの証の「主語」は、神様なのです。

パウロは、人々に偉大な王として崇められているダビデと、その子孫からイスラエルに与えられた救い主、主イエス・キリストを対比して語るのです。ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕え、ついに朽ち果てました。しかし、救い主としてこられた主イエスは、人々によって罪にさだめられ、十字架によって殺されてしまったが、神は朽ちることのない方とされました。それは、神が、預言書に約束されたとおり、この方をよみがえらせたからなのです。この主イエスの十字架と復活の出来事は、まさに、あなたがたの罪の赦しのためであり、その事を信じることによって、朽ちるべき、滅びる身から解放されると、力強く語るのでした。