聖書 マタイの福音書 7章7-12節
私たちは、主イエスが言われたように「あなたがたは自分が何を求めているのか。わかっていないのです(マタイ20:22)」 しかし、「求めよ。さらば与えられん」として、求める対象がわからないままに、人間が自分の必要を満たすために、自分の願望を実現させるために、格言のように、み言葉が用いられてきました。さらに、主イエスが語られた言葉の真意を取り違えて、キリスト者までが、信仰によって求めるものは、与えられると思っている態度を見るのです。それは、信仰までも利用した自己実現の姿と言えるのではないでしょうか。
主イエスが語られた「あなたがたは、悪い者である。」と語られた深い思いを受け止めなくてはいけないのでしょう。私たちは、自分の子どもに、孫に、良いものを与えようとします。生きるのに必要なパンや魚を与え、石や蛇は与えないと思ったとしても、その判断の中心は、自分であることには思いが届かないのです。私たちが求めるものは、いつもその限界の中でしか考えることができないのです。神様から与えられた関係性、特に子どもたちを、自分の責任で、良いものにしようとしている状況を思うのです。自己実現、自己責任から解放されることによってのみ、他者と繋がり、隣人と生きる道が見えてくるのです。主イエスは、主なる神のみが、求める者たちに良いものを下さる唯一の方であることを語られるのです。ですから、神より預かった子どもたちを御旨に沿うように教え育てることができるようにと祈り求めるのです。
主イエスは、神の国と神の義をまず第一に求めなさい。と言われるのです。この世の誘惑に揺さぶられながら、求め続けること、探し続けること、叩き続けることは、容易なことではありません。しかし、律法と預言者を廃棄するのではなく、成就するために、この世に来てくださった方と共に歩むとき、求める者は受け、探す者は見つけ出し、叩く者は、開かれることになるのです。