神様の背中 2013年9月29日 主日礼拝

聖書:イザヤ書46章1~4節                         田代秀武

偶像と言うものに手を出さないと言いながらも知らず知らずのうちに、この世での生業や世の流れの中で手を染め易い私達であります。その様な私達を神様は熟知しておられます。土の器でしかない私たちは、このことに立ち帰る時に、信仰とは自分を支えて下さる神様を証することを思い起こすとともに、奉仕とは、自分を担ってくださる方に感謝をもって応答すること以外に何もない事を知らされます。

イザヤ書46章4節には、「背負う」と言葉が繰り返されています。「背負う」と言う言葉は、イスラエルの民の歩みの歴史を通して、又私たちの生き様を通しても解りますように、神様には相当な忍耐と苦労があると思います。その逆の言い方をすれば、私たちは神様の「重荷」でしかないことを意味しているのでありましょう。私たちはクリスチャンとなって神様の為に何かをしている者であるかのように奢り高ぶっている時がありますが、元をただせば人は皆神様の「重荷」でしかありません。神様は、それはそれで良しとして下さっています。なぜなら、神様が労苦し忍耐し、痛みを負いつつも、はっきりと、この「重荷」でしかない私達に、「背負う」という言葉を神様の側から言って下さっているからです。そして、この事は新約聖書の中に、主イエス・キリストの姿を通して知らされています。

そこには手足に釘を打たれ、十字架に貼り付けられ苦難を忍び死に臨まれる主イエス・キリストの姿があります。そこに、そうまでして、黙々と私達を背負う、神様の姿を見る事ができます。神様は、私達個人が望もうとも、望まなくても関係なく、神様の側から丸が抱えで背負っていて下さる方です。イスラエルの民がそうであったように、私達にしても同じく不真実で、自己中心で、神様に逆らってばかりいる、どうしようもない頑なな存在である私たちです。そして今も私たちの罪の重さを引受けて、背負って下さっています。何故なら、神様は私達を愛して下さっているからこそ、またその存在を喜んで下さっているからこそ背負って下さるのです。その神様の思いを確信し、心から受取りそれに答えようではありませんか。