聖書 ルカによる福音書 11章33-36節
現代社会に生きていると、夜になっても闇の中に閉じ込められる経験はほとんどしません。それほどまでに、光にあふれている世界に生きているとも言えるでしょう。しかし、主イエスがこの世に遣わされた時代、小さな灯がなければすぐに闇に覆われていったのでした。だからこそ、光に対する思いは強く、なくてはならないものであったのです。
主イエスの働きに驚いて集まった群衆たちは興味本位に天からのしるしを求め、批判的な人々は悪霊の頭ベルゼブルの仕業と吹聴していきました。しかし、そこには、主イエスの言葉に耳を傾け、真直ぐに受け止めようとした人々もいたのです。だからこそ、主イエスは灯のたとえを用いて、神の言葉を受け入れた人々が大切に自分の中にある光を暗くしないように語られるのです。
この短い灯のたとえは、灯を置く場所、目は体の灯、全体が輝く人の構成となって、どのようにつながっていくのか、一読しただけでは理解しにくいように感じます。灯のない家には中に何が置いてあるかも、誰がいるかもわかりません。灯によって周囲が明るくされるからこそ家の中に入ってくることができるのです。同じように人間の心の中も、闇のままでは悪や罪の存在も闇に紛れてみることができないままです。ここで目は体の灯と言う表現に目が澄んでいるという言葉が加えられていますが、目を輝いている灯を受け止める器官としてとらえた表現なのです。 すなわち、自分の中にある闇を照らし真理を悟る光によって、自分自身が照らされ、さらにそれを留めることで、自分の中の光となっていくと言われるのです。
光は覆い隠しても、隠すことができません。主イエスが語られた福音もまたどんなに妨害をうけても、伝えられ、届けられていきます。もともと闇しか持ち合わせなかった人が主イエスの光によって変えられ、全体が輝く人となって周囲を照らし、社会も変えられていくのです。
あなたがたは世の光である。(マタイ5:14)