聖書 ルカによる福音書 10章21-24節
主イエスが始めた「神の国」は、実に逆説的なものです。貧しい人が幸いで、富んだ人に災いあれ、と言われ、泣いている人が幸いで、笑っている人に災いあれと言われる国(6:20-26)です。派遣した弟子たちが、その信仰共同体に全員戻ってきたときに、主イエスは聖霊によって、喜びにあふれて語りだされるのでした。この箇所を、著者ルカは主イエスのエルサレムへの道の先に、創造主なる神と、贖い主なるイエス、さらに助け主なる聖霊の働きを思い描いて記していったのでしょう。
「天地の主である父よ。あなたをほめたたえます。」主イエスの喜びの基は、まさに創造主なる神が共におられ、アッパ(お父ちゃん)と呼びかけることのできる近さを感じていることでした。さらにこの真理が、知恵ある者や賢い者には隠されて、幼子たちに示されたことも、喜んでおられるのでした。 わたしたちは、この逆説的なものを、そこに連なる人々が語り伝え、確実に祈りを合わせることで、消えることなく手渡されてきたことを思うのです。
主イエスは弟子たちだけに、あなたがたが見ているもの、聞いているもの、すなわち人間としてこの世に遣わされた主イエスに触れることのできる幸いを喜びなさい。と、言われるのでした。旧約聖書の中には、イエス・キリストの到来を示す預言者や王の言葉を見ますが、彼らは主イエスに触れることなく眠りにつきました。
現代社会に置かれている教会は、幸いにも、聖霊によって主イエスに触れることを許されています。ですから、この逆説的な生き方、歩み方の上に立っているかを自己吟味する必要があるのでしょう。神は知恵ある者や強い者を恥じ入らせるために、世の愚かな者、弱い者を選ばれた(コリントⅠ1:27)と、パウロが記す言葉を受け止めたいのです。無駄あるいは無意味といわれる中で、弱く小さくされた者と連帯し、共に祈ることに価値を見出すものでありたいのです。