聖書 エフェソも信徒への手紙 2章14-16節
多様性という言葉が、様々な場面で使われるようになりました。それに対して、どのように向かい合うのかが問題なのだろうと思います。違いを認めると言いながら、どちら側に持っていこうとすれば必ず「敵意」が生まれてくるでしょう。一方で違いを感じたときに、まず相手の主張や行動に対して寄り添ってみようとするときに「歓待(おもてなし)」という互いを尊重する関係性へとつながっていくのでしょう。しかし、本来人間は自分が、自分たちの側に「正義」を持っていると感じています。ですから、人間が「歓待」を実行するには、大きな意識改革を伴うものと言えます。
エフェソの信徒への手紙は異邦人、神を知らない民族とされている人々へ届けられた手紙です。その人々は、アブラハムも、モーセもそれに続く「律法」も知らず、直接的に、主イエスの十字架と復活の出来事によって、イエスを主と告白していったのでした。それこそが、主イエスの十字架によって与えられる恵みであり、そこには民族の、社会的身分の、性別の隔ての壁が取り除かれた世界が広がっているのです。
毎年の8月の礼拝で、平和宣言を交読していますが、今年から新しく改訂された平和宣言を用いています。その改訂内容において、最も大きく変更されたのは、結語の部分で、特に十字架の和解についての議論を踏まえての変更でした。主イエスの十字架と復活の出来事は、「新しい人」を創造し、平和と和解をもたらします。それを終わりの日まで待つのではなく、既に私たちに与えられていることを共有することを目的としました。
キリストは私たちの平和(2:14)と宣言する背景には、違いを際立たせる民族や信仰の違いを憂う深い哀しみを思います。その思いは現代社会にも通じるものでしょう。しかし、すでに御子イエスの十字架と復活の出来事を通して、二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださった(2:16)ことに確信をもちたいと思うのです。