聖書 コリント信徒への手紙一 10章12-13節 宣教 松谷信司(キリスト新聞)
「信じることの意味」が改めて問われています。元首相銃撃事件後の一連の報道を受けて、いま最も憂慮するのは世論が「宗教こわい」という結論に陥ってしまうことです。そうやって未知なものを遠ざけ、かえって免疫を養うことなく、非常時に対応できるリテラシーを欠いたまま招いてしまったのがオウム事件だったはずではないでしょうか。彼らは「アブナイ」宗教で、私たちは「安全」だと、なぜ言えるのでしょうか。私たちも同じ「信じる」という行為において、一人の宗教者として決して他人事にはできない問題だと考えなければなりません。
私自身は改革派系の厳格なクリスチャンホームで育った「2世」です。大学卒業後、迷った末に選んだ制作会社で、テレビ報道の現場に携わりました。2年後、キリスト教系私立小学校で教員になる道が開かれましたが、これも道半ばで挫折し、現在のキリスト新聞社に転職することとなります。それまでまったく異なる職種で得られた経験と、記者としてさまざまな教派、教会、牧師を訪ねる中で聞いた現場の声は、2009年に創刊した雑誌「Ministry(ミニストリー)」で大いに発揮することができました。
この間、特に印象的だったのは、聖書で他人を殴りつける人々、そして殴られて悲痛な叫びを上げる人々との出会いです。決して物理的な意味ではなく、「聖書にこう書いてある」と言ってはばからない傲慢さ。福音の持つ本来の喜びや恵みが捻じ曲げられているとしたら、なんと嘆かわしいことでしょう。
コロナ禍以前から、教会は弱り続けてきました。教勢の低迷と牧師の高齢化も目を覆うばかりです。しかし、こうした危機的状況だからこそ、救世主を騙る偽預言者が現れた時、そして同じ神に愛された隣人を自分の意のままにコントロールしたいという誘惑に駆られる時、はっきりと対峙できるタフな信仰と勇気を着実に養っておきたいと心から願います。