創世記1章27節-2章7節
創世記1章では、神が6日間で天地を創造し、最終日に人を「神のかたち」に創造されたと記されています。この「創造する」という言葉はヘブル語で「バーラー」という動詞であり、主語が常に神であるという特徴があります。人は神によって造られました。これは、神にしかできない創造の御業であることを意味します。
また、天地創造の物語において人が最後に造られたのは神の特別な目的によるものです。創世記1章28節にあるように、神は人を祝福して「地を従えよ」「すべての生き物を支配せよ」と命じられました。人は神の代理者として地を治める責任があり、また、創造の管理者・守り手としての使命も与えられているのです。神が創造されたすべてのものは極めて良いものでした。(創世記1:31)
創世記2章では、神が土の塵(粘土)で人を形づくり、命の息を吹き込まれたことで、人は「霊」「たましい」「からだ」の三つの要素を持つ者となりました。人は神のかたちに創造された存在です。霊によって神と交わることができるのは、人に与えられた特権です。神の目に人がいかに尊い存在であるかを意味しています。
しかし、創世記3章では、人は神の命令に背き、「善悪の知識の木」の実を取って食べ、善悪の基準を自分で持つようになりました。その結果、罪によって、神との関係が断たれ、人はエデンの園から追放されます。
それでも、憐れみ深い神は、いちじくの葉によって裸を隠そうとした人の努力に対し、皮の衣を与え、犠牲による赦しの道を示されました。これは後に、イエス・キリストの十字架による願いを予表するものです。神は、最初の人アダムの時からすでに、救いのご計画をお持ちだったのです。今、私たちは、救いが完成された恵みの時代に生かされています。
では私たちは神に創られた者としてどのように生きるべきでしょうか。使徒パウロは、私たちが神の作品であり、善い行いのために造られたと語っています。(エフェソ2:10)また、私たちの体は、聖霊が宿る神殿であり、自分の体で神の栄光を現すよう勧めています(1コリント6:18-20)。土の器に「宝」を納めている(2コリント4:7)私たちは、その「宝」一すなわち、神の力、栄光、イエス・キリストの福音ーーを、人々に分かち合う使命を与えられています。主の栄光は、私たちの賛美の中に、互いに愛し合うところに、そして、十字架の恵みを感謝する時に現れます。私たちは、聖霊の働きによって、主と同じかたちに変えられていく(2コリント3:18)という約束のもと、感謝と祈りをもって主と共に歩みましょう。