聖書 コリント信徒への手紙一 12章1-3節
教会は聖霊の働きがなければ機能しないことを知っているからこそ、私たちはキリスト(主)の体と表現していくのです。なぜなら、教会の始まりは、祈りを合わせていた弟子たちに、聖霊が降ったことによるからです。これを記念して教会は聖霊降臨(ペンテコステ)礼拝を大切に守ってきたのでした。使徒言行録2章に、その様子が記されています。その激しい風や、響き渡る音、さらに炎が留まるという衝撃的な表現が印象的ですが、肝心なのは聖霊が降って、人々が語り出したことなのです。
コリントの教会は、様々な背景を持った人々によって構成され、どうしても意見の違いによって、一致できない状況が続いていました。それに対してのパウロの思いが、コリント信徒への手紙として伝えられ、私たちに届けられているのです。 特に聖霊の賜物についての逸脱、混乱が起こっていたようです。「異言」のような非日常的な体験を誇るものが現れると、そのような体験を持たないものが劣等感を抱くことが伺い知れます。だからこそ、聖霊の賜物についての基本的でとても重要なことが記されていくのです。
私たちには聖霊を見ることができません。教会の歴史を振り返るとき、同じような誤解や混乱が繰り返され、今も巻き込まれている状況があるのです。パウロは異教の霊(偶像崇拝)と聖霊を対比させて、陶酔や興奮とは全く違う、聖霊の賜物に生きることを示していくのです。それは「イエスは主なり」という信仰告白の上にしっかりと立つことであり、高揚した思いや幻を見ることとは違うものです。
主イエスは、霊について「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くのかを知らない(ヨハネ3:8)」と示されました。主なる神が起こされる風は、いつも私たちに心地よいものばかりではないでしょう。しかし、どこまでも信じきるという告白こそが「イエスは主なり」なのです。