2022年8月21日 主日礼拝 傷のない神の子

聖書 フィリピの信徒への手紙 2章12-18節

 

戦争が終わるたびに、私たちは自分が騙されていたことに気付き、もう二度と騙されないで平和を造りだすものになろうとします。しかし、私たちは性懲りもなく、罠にはまったように戦わなくてはいけない思いへとかりたてられてしまう歴史をみます。現代社会においても、それぞれに「敵」がつくられ、巧みにしかたなかったと思わせられていくわけです。この時代に、平和の主イエスに従って生きることの難しさと信仰共同体の重要性を思うのです。

獄中からパウロが繰り返すことは、神であられた主イエスが私たちのために世に来てくださった福音の喜びです。初代教会で歌われていた「キリスト賛歌(2:6-11)」をうけて、キリスト者の生活の基盤となることを記していくのです。パウロは信仰とは神に従順であることと言い切って、見える形でのリーダーの存在ではなく、自分自身に働きかけてくださる神に信頼することこそが信仰であるというのです。しかし私たちには何に従順でなくてはいけないかが、良く理解できていないまま歩んでいるのかもしれません。だからこそ命の言葉を保つことが求められているのです。

この箇所に「とがめられるところのない」「純真な」そして「傷のない」と、どこか道徳的で品行方正な人間の姿を浮かび上がらせるような言葉が続きます。まさにキリスト・イエスがそうであったように、そして神に従順に従うものに備えられる特質とも言えるものです。特に罪に対して不従順(不服従)を選び取った教会にこそ、与えられる言葉として用いられているのです。ですからパウロは、キリストの日を思い描き、フィリピの教会のひとり一人が神に喜ばれる歩みを続けていけるように、共同体の一致と喜びの共有を語るのです。ゆがんだ邪悪な世界に生きる私たちにとって、互いの「平和」のイメージが違っていたとしても、そこに「主の平和」がなければ、別のものへの従順へと誘惑されることを知っていかなくてはいけないのでしょう。