どうしたらよいのですか  2013年5月26日 巻頭言

聖書 使徒の働き 2章37~42節

人は変わりたいと思っているのです。このままではなく、より良い自分、人に愛され、人を愛する人へと変わっていきたいと思うのです。しかし、そこに痛みが伴うといわれると、避けて通りたいと思うのです。

「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と、聖霊を受けたペテロは、実にはっきりと語るのです。過越の祭りのために、エルサレムへとやってきた多くの人々にとって、ナザレ人イエスが、十字架刑によって殺されていった事は、記憶に生々しい事件、出来事だったに違いないのです。中には、あの熱狂的な勢いにのまれて、自ら「十字架につけろ!」という言葉を発した人々もいたかもしれません。少なくとも、イエス様が捉えられ、十字架にかけられ、その三日後に墓が空っぽであったことは、その場所にいる人にとって大事件だったのでしょう。

しかし、その事件は、自分の事件ではなく、このエルサレムにおける事件であり、殺されたナザレ人イエスと関わりを持つことは、自分の身が危ないことになる可能性が高い事件だったのです。 しかし、ペテロの宣教を聞く人々にとって、「あなたがたは、キリストを十字架につけた」と、聖霊によって力を得た言葉は、それぞれの心を刺したと、聖書は語ります。他の人の事件、他の人の苦しみのはずだったことが、救い主を待ち望み続けてきた自分たちと神様との事件、まさに自分の出来事になったときにこそ、人々は、胸をうち叩いて、しぼりだすように「どうしたらよいのですか?」と問いかけるのです。

「悔い改めなさい。罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と、応答するペテロの言葉は、私たちの救いのために、痛み、苦しまれているキリストの愛でしか、変えられることのない私たちであることに気づかせるのです。