隣人として生きる 2013年8月18日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 26章47~52節

実に緊張する場面です。イエス様を捕らえようと、大勢の群衆が、剣と棒を手にして、十二人の弟子の一人ユダと一緒にやってきたのです。祭司長や長老たちが、自分たちの立場を守るために、その人々を差し向けたのでした。ユダの声「先生、こんばんは」その挨拶の口づけを合図に、捕まえるようにと決められていたのでした。この場面は、どの福音書にも登場する場面ですが、マタイ福音書は、イエス様の言葉に、「友よ。」を記します。同志、仲間という意味を持つ、その言葉は、すでに何の目的で、ユダが近づいていたかを、十分に知り得ていながらも、なおその弟子一人ひとりを愛する響きを感じられるものであったのでした。

イエス様と一緒にいた者が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落としたと言います。その瞬間、するどいイエス様の声が響きます。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と語られた言葉は、対峙する弟子たちと群集たちの、振り上げた手を下ろさせ、暴動を未然に防いでいくのです。そこに、私たちは、徹底した愛と赦しの中で、非暴力を貫いたキリストの姿を見るのです。

8月、平和宣言月間として、交読している「平和宣言」は、911テロ事件の報復として、アフガニスタン、イラクへの攻撃が始まった時期に、連盟総会で採択され、10年が経ちました。 私たちは、自分に危険が及ばないように、あるいは自分の考えが正しいとして、すぐに暴力に向かい、剣を振り上げそうになる者なのです。だからこそ、主イエス・キリストの愛と赦しに触れ、その言葉を繰り返し聞かなくてはいけないのです。 今、緊張を強いられる国際情勢の中でこそ、教会は、何に立つのかを問われていくのでしょう。主イエスに従い、その福音に応答するとき、戦争を断念するだけでなく、アジアにおける隣人との和解を視野にいれて歩む道へと促されていくのです。