少ない言葉でも  2014年2月9日 主日礼拝

聖書 使徒の働き26章24~29節

使徒の働きの中のパウロの弁明は、その骨格に当たる部分は同じでも、相手によってその導入や、表現方法が違っていることがわかります。今回のアグリッパ王に対してのパウロの弁明は、実に熱弁であったことが伺われます。彼の弁明に対して、総督フェストは、気が狂っていると大声を上げます。主イエス・キリストもまたユダヤ人たちに「あれは悪霊につかれて気が狂っている。」と非難されたのでした。しかし、パウロは、まじめな真理の言葉を話していると冷静に向かい合い、自分が語った事柄は、事実であり、王が聞き及んでいることであると語るのです。

興味本位であったアグリッパ王は、その話に引きずり込まれることを恐れ、この短時間で、私を説き伏せてキリスト者にしようとするのか?と、一線を引こうとするのでした。

「言葉が少なかろうと多かろうと、あなたばかりではなく、きょう私の話を聞いている人がみな私のようになることを神に祈ります」と、パウロは応じるのでした。

私たちが伝道するというとき、それはいつも個人にむかい、社会とか国家にむかって伝道するとは考えないのではないかと思うのです。しかし、わたしたちの生活は、この国家や社会の仕組みに組み入れられており、その路線の中での社会儀礼とか、常識とかが、大きく影響していることを思うのです。そのような動きに対して、黙って従順に従うことができないとき、気が狂っている一人にされてしまわないように、信教の自由が制定され、息づいてきたのです。繰り返し、繰り返し語り続けることの大切さを覚えます。なぜ、2月11日は、教会で、信教の自由を覚える日とするのか? その日を、一般的な暦とは違った表現を取ることになった背景を、次に手渡していくことをやめてはいけないのでしょう。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなさい(Ιペテロ3:15)