パンを裂いて 2014年3月23日 主日礼拝

聖書 マルコ14章22~26節

私たちが食事をするとき、いつ、だれと食べるのかは重要な要素になります。 祭司長、律法学者たちが、イエスを殺そうと狙っている中で、主イエスは、大切な「過越の食事」を弟子たちとするために、周到な準備をされました。過越の小羊をほふる日に、ふたりの弟子は、主イエスの語られたとおりに席の整った客間へと導かれ、食事の準備をします。

夕方、主イエスと十二弟子は、そろって席に着いて、食事をしている時に、主イエスが自ら行った行為を、私たちは、毎月、主の晩餐式において再現するのです。

イエスはパンを取り、祝福の祈りを唱えてからこれを裂き、弟子たちに与えて言った。
「取りなさい、これはわたしの体である。」

主イエス自らが、パンを裂いて、弟子たちに同じように与えるのでした。それは、すでに裂かれているパンを、各々が受け取るのではなく、パンを取り、祈り、弟子の名を呼び、裂いたパンを、ひとりに渡す行為が、一人ひとりに行われたことを現すのです。弟子たちは、その前に、主が語られた「わたしといっしょに食事をしている者のひとりが、わたしを裏切ります。」という言葉によって、悲しみの中で、パンを受け取っていくのです。

また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」

主イエスは、まず主なる神に祈り、感謝をささげた後に杯を渡されます。一つの杯を飲み、次の弟子へ回していく行為は、共に分かち合う思いを豊かなものへとしていったでしょう。

主イエスの体と契約の血が、別々に弟子たちにふるまわれる行為は、このあとに続く暴力的な死、むごたらしい処刑を意味しているのです。主イエスを、過越の供え物の小羊とみなし、最後の晩餐を、新たな過越の食事とするとき、主の晩餐に招かれている私たちも、また同じ道へと招かれていることを思うのです。