関係性をこわすもの 2014年9月7日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 5章27~32節
主イエスは、自分に従ってきた人々が、子どもの頃より教えられていた「十戒」を取り上げ、「しかし、わたしはあなたがたに言います。」と、その中に込められた神の意志を語りかけられました。聖書が記す、第七戒「姦淫してはならない」という言葉には、神と人との関係性の上でしか、夫と妻の関係性は成り立たないという、基本的な考え方が込められています。ですから、「不倫」とか、「浮気」という安易な言葉をさけて、現代社会では、ほとんど聞くことのない言葉を用いているように思えるのです。
この福音書が記された時代において、「姦淫」という行為は、主権者たる男の行為であり、女はその対象者でしかなかったのです。人間の数としても数えてもらえない女は、その家の財産であり、第十戒、「あなたは隣人の家を欲しがってはならない」の中に、隣人の妻が他の奴隷や、家畜と並列に記されているのです。
しかし、主イエスは、「姦淫」という出来事の中で、ふみつけられ、痛み傷つけられた女たちへ、また「気にいらない」という自分勝手な判断で、離別された女たちの嘆きに寄り添い、神様が求めておられる結婚のあり方を語ってくださったのでした。
だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で、姦淫を犯したのです。(6:28)の御言葉に、つまづき、厳しいことを要求していることに、距離を感じてしまう方々がいることを思います。新共同訳では、女を他人の妻と翻訳し、姦淫とは、人と人が向かい合う基本的な関係性を、人間の欲望によって破壊していくことと気づいてほしい主イエスの思いを際立させようとしています。
人間の欲望によって、相手を従わせる関係性は、相手の自由意思を無視し、相互に交わされる本当の愛は、存在しないのです。ですから、神様は、人間を自分に従わせるものとして造り出してくださったのではなく、自らの意思を持って、神に向かい合い、愛する存在としてくださったことを思うのです。