主の祈り①  2014年10月26日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 6章9~10節

主日礼拝で、全員で唱和する「主の祈り」は、祈るべき基本が満ち溢れています。ですから、ただ覚えていればよいものではありません。そこに含まれている深い内容と、当時の背景から見えてくるものを、今週から、数週間をかけて分かち合いたいと願っています。この祈りは、主イエスが弟子たちに「こう祈りなさい」と教えてくださった祈りです。ルカの福音書とは違って、マタイの福音書は、著者が、その共同体を思い浮かべて編集したものであると言われています。

祈りとは、神と向かい合い、神と対話する時とも言えるでしょう。呼びかけは、とても大切なものです。ひとり一人が、違った神に呼びかけていては、共同体は、バラバラになってしまう危険性があると言えます。まず、旧約の時代に、人々がその名をみだりに口にすることができない神。正しく、厳しく罪を裁かれる近寄りがたい神。その神が、主イエスをこの世に送ってくださったことによって、身近に感じることのできる、「私たちの父」と呼ぶことができることを、深く思い描くことが必要となってきます。次に、神とその御名が、本来持っている神聖さが、その出来事によって、神の力とその救いの業となって、この世の私たちが、御名があがめられる(聖とされる)ようにと、祈ることができるようになったことを感謝する祈りとなるのです。

主イエスは、生涯をかけて、「神の国」を伝えられました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と、自らが、この世に遣わされたことによって、「すでに」神の国の始まったことを語っていかれたのでした。この世に生きる私たちが、「御国が来ますように」と祈るとき、この世に神の支配を感じられない中でも、神様の支配が始まりを感じることができるようにという祈りでもあるのです。さらに、再び来てくださると約束してくださった主イエスが、「やがて」神の国を完成してくださる事を、真剣に求め祈るものへとされていくのです。