家族との生活の中で 2015年2月22日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 8章14-17節

私たちの生活の中で、病や障害を持った家族を抱えることは、大きな重荷と言えるでしょう。高齢社会において、終わりの見えない在宅介護による悲しい事件を聴くのです。介護する側だけでなく、介護される側も、多くの重荷を担い、解決の道は見いだせない状況を思うのです。

重い皮膚病のいやし、僕のいやし、と続いた中で、聖書は、弟子ペテロの家で、家族の熱病を癒されたことを記します。主イエスは、ペテロの家で、熱病で寝ていたしゅうとめをご覧になって、手にさわられ、彼女の熱は引き、起き上がってイエスをもてなしたと記されています。この出来事は、多くの弟子たちの記憶に残ったことであったために、他の福音書にも記されています。ペテロは、網を捨てて、主イエスに従ったが、家族との関係性まで、捨てていなかったことを知るのです。まして、熱病で、苦しんでいるしゅうとめとも同居していた家があったことを思うと、家族の痛みも抱えながら、主イエスに従うことを思うのです。 ペテロの家に入られた主イエスは、自ら近寄って癒しの出来事を起こされたのでした。

主イエスは、悪霊につかれた者たち、病の人々を、みな癒されたと聖書は記します。そこには、確実に、その人々を主イエスの所へと運んでいった家族がいたのだろうと思うのです。なんとかして、この状況を解決したい、主イエスに出会うことによって、見出すことができると信じて行動した人々を思うのです。そして、その有様は、イザヤの預言のように、主イエスご自身が、自ら病を負い、痛みを担ってくださったことによると、マタイの福音書は記すのです。

現代社会に生きる私たちの生活の中で、人間同士では、解決を見出すことのできない所に、すっーと、主イエスが入られ、手が触れられ、考えもつかない方法が開かれていくことが、証しされるのです。主イエスは、今日も共に重荷を担いあうことのできる道を示し、私たちの家に入ってこられるのです。