エッサイの根株より<アドベント第一週>

預言者イザヤは、反アッシリア同盟を結んで抵抗しようとする王に対して、人間的なつながりではなく、主なる神に従うことを優先するように進言し、救い主メシアの出現を預言するのでした。しかし、大国アッシリアは猛威を振るい、ユダ王国は滅びへの危機が迫ります。主の全面的な裁きの中で、切り株から、新しい芽が萌え出すように、希望に満ちた言葉が示されます。ここでダビデの根株ではなく、エッサイの根株と表現することに注目したいと思います。それは、罪と背信のダビデの家ではなく、新しい救い主メシアの姿を預言する言葉だったのです。

エッサイは、祖母ルツがモアブ人であったように、生粋のイスラエル人ではなく、さらに羊飼いとして社会的には地位の低い人でした。サウル王が語るように「エッサイの子」という呼び方には軽蔑が込められていたようです。またエッサイは、「あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした(Ⅰサムエル記16:1)」との神の呼びかけを携えた預言者サムエルを温かくもてなし、その息子を紹介する人でした。

イザヤは、エッサイの根株からはじまる新しい芽、若枝が出て実を結ぶ所に「その上に主の霊がとどまる(イザヤ11:2)」と、インマヌエルなる方は、知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り畏れ敬う霊に満たされていることを語るのでした。彼は寄るべのない者、貧しい者のために判決する方でした。社会的不正をただし、正義と公平を保つための手段は、地上的な権力、軍事力、組織ではなく、その言葉であったことを思います。

しかし、私たちは、長く続くイスラエルの民の抑圧的な生活は、人々の心を揺さぶり、本来の意味からかけはなれて、即効性のある変革を望んでいったことを福音書の中に見ることができます。アドベントの時期、聖書の語る救い主メシアの本来の姿を学び合いましょう。