ルカの福音書1章には、2人の女性が登場してきます。そして、2人とも、主が目を留めてくださることによって妊娠し、男の子を出産することになります。 最初に登場するのは、ザカリヤの妻エリザベツです。その紹介には、アロンの子孫であり、神の御前に正しく、年老いて不妊の女であったことが記されます。主の使いは、夫である祭司ザカリヤが主の神殿に入って香をたく中で、エリザベツの妊娠を告げます。
一方マリヤは、ガリラヤのナザレに住むひとりの処女として、またダビデの家系のヨセフのいいなずけとして紹介されます。 当時の習慣からすると、マリヤはおおよそ14-15才であったと思われます。 いままで父親や兄弟以外の男性とは親しく話すこともない少女が、見も知らぬ主の使いガブリエル(男性)に突然声をかけられ、妊娠を告げられるのです。当惑し考え込んで「どうして、そのようなことがありえましょう」と、拒絶してもおかしくない状況です。しかし、主のみ使いの言葉を深く受け止めたマリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように」と応答していくのでした。
主のみ使いの言葉によって、マリヤはエリザベツの所へ急ぎます。妊娠とは、女性にとって「既に」と「未だ」を生きることです。2人の出逢いは、まさに聖霊に満たされた4つの命の共鳴ともいえます。「主によって語られることは必ず実現すると信じた人は、何と幸いなことでしょう。」と語るエリザベツに応答して、マリアの賛歌が歌いだされていくのです。「私の魂は主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます(ルカ1:46)」 少女の歌とは思えないほどに力強く、主が支配される神の国を歌う内容は、高ぶる者や権力のある者を引き下ろし、低き者、飢えた者を満ち足らせると、希望に満ちています。アドベントの時期、私たちもまた「既に」と「未だ」の途上で、主を待ち望むものとされていきましょう。