「ああ、愚かな人たち。」 こんなひどい言葉を受けても、弟子たちは、目の前にいる男の人が、イエス様とは気づかなかったのです。 弟子たちは、イエス様を、力のある預言者であると思い、この方こそイスラエルを購ってくださる方として望みをかけていたのでした。そうなのでしょう。わたしたちもまた、自分自身の思い込み、期待、そして、そのことが自分にとってどうなるか?が問題なのです。 真実が、目の前に広がっていても、まるで覆いがかけられたように、認めることができない。それが人間なのかもしれないのです。
イエス様は、自分のことで、いっぱいになっている弟子たちにむかって、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを解き明かされたといいます。 なんと素晴らしい時間だったでしょう。 さらに、イエス様は、彼らとともに食卓につかれ、パンを取って祝福し、裂いて彼らにわたされたといいます。 その仕草、その言葉、 目の前に行われる主の晩餐式において、弟子たちも、そして今を生きるわたしたちも、主に出会い直し、十字架と復活の出来事を、追体験することができるのです。 弟子たちは、暗い顔でうつむいた顔を上げて、イエス様が、語ってくださったこと、パンを裂いて渡してくださったことを、分かち合うために、踵(きびす)を返して、自分たちの身の危険も返りみないで、友のいるエルサレムへと帰っていったと聖書は語ります。
この弟子たちの歩みを見るとき、イエス様に出会い、イエス様を見出し、信じて応答する生き方を、はっきりと、見ることができるのではないでしょうか。
1. イエス様は、ご自分から、近づいてこられる方であること
2. イエス様は、聖書の御言葉を通して、ご自分を教え、表してくださる方であること
3. イエス様は、主の晩餐式の只中で、十字架と復活の出来事を追体験させてくださる方であること
4. イエス様に出会ったとき、わたしたちは、今までの向きとは違う、主と共なる歩みを始めることができること
さて、新しい年度が始まっていきます。昨日の続きとしての今日にするか、それとも、イエス様に出会って、まさにこの日、復活の出来事は、私のためと受け止めるかは、自由です。 主は生きて共に歩もうとされる方です。