キリストの平和 2020年8月2日 平和祈念礼拝 

聖書 コロサイの信徒への手紙 3章14-16節

主イエス・キリストの十字架は、赦すに値しないものを赦すために、神が起こされた非常手段、最終手段と言えるでしょう。これはまさに「敵を愛する」ことを、神ご自身が実行されたことを意味します。ですから、わたしたちが、この神の業を自らの救いの出来事として受け止めるとき、神に選ばれた者、愛された者としての生き方が示されていきます。

コロサイの教会の信徒たちに向かってパウロは、神に愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。と語ります。この言葉は「主イエス・キリストを着なさい。(ローマ13:14)」と、同じように古い人に付着する闇の行いを脱ぎ捨てて、新しい人として「キリストを着る」ことによって実現する姿なののです。そして、その衣服がバラバラになったり、脱げてしまったりしないように、これらすべての上に愛を着けなさい。と語るのです。神の愛(アガペー)は完全性の帯だから、許せない、不当な扱いと怒りや憎しみが沸き起こったとしても、許してみようとする心が与えられるのです。さらに、もう終わったことだからと、過去に捕らわれない未来に目を向けることのできる生き方が示されていくのです。

その中から、一人ひとりに「キリストの平和」が心に満たされ、支配され、神との平和があふれ出て、互いの交わりへと結びつけられていくのです。まさにその関係性に神の国が誕生し、神と人、人と人との交わりが一つの体となって形成され、神の教会となっていくのです。そこには、絶えず感謝の思い、感謝の言葉が広がっていくのです。

8月、平和宣言月間として、毎年平和について学び合い、互いの交わりの中で論じあう時としています。初代教会も、旧約の詩編からの歌ばかりでなく、自分たちで、節をつけて神の愛を、歌い続けてきました。私たちも、「キリストの平和」を思い描きつつ、主なる神が起こしてくださった自らの赦しの出来事を想起しつつ、賛美の歌を歌い続けていきましょう。