主の祈り②  2014年11月2日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 6章11節

主イエスが、教えてくださった祈りは、まず神への祈りからはじまっていきます。「御名」「御国」「御心」を祈った後で、私たち人間の祈りになります。そして、私たちの祈りの最初は、「日ごとの糧」「必要な糧」の祈りです。「糧」と訳されている言葉は、そもそもは、「パン」を表し、主食、基本となる食べ物を意味します。当時の社会で、主イエスのまわりにいた人々は、その日雇ってもらえれば食事にありつけるような、不規則、不安定の只中にある状況だったのです。ですから、その祈りは、実に切実な祈りでした。

世界の歴史を振り返る時、経済が低迷し、日々の糧がおびやかされている状況は、人々の精神状態を刺激し、そこに争いや、不和、さらに戦いの出来事を見るのです。しかし、アジアの稲作の歴史は、すでに一万年を経過し、九州のみの歴史としても3000年を超えている日本において、徹底的に日々の食べ物が枯渇する経験は、一部の限られた人々のみであったのかもしれません。ですから、礼拝で共に祈る「主の祈り」の中に、「今日与えたまえ。」という言葉が用いられているようにも感じるのです。もともとの祈りは、命をつなぐ、生きていくために必須の、どうしても必要な食べ物を、祈り求めるものであったことを覚えていかなくてはいけないのでしょう。

この祈りは、「私」の祈りではなく、「私たち」の祈りであります。発展途上国において、6秒に一人が餓死するような状況の中で、恐ろしいほどの食糧が廃棄されている現状で、教会が、分配における不正と搾取に配慮せずに祈ることはできないはずです。 共に分かち合って生きる道を、問われる祈りでもあるのです。 また、主イエスは、今日必要な糧を与え、養ってくださっている方が、すべての必要を満たしてくださる方であることを示してくださったのでした。

人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。(マタイ4:4)