主よ ここにおります。 2013年6月23日 巻頭言

聖書 使徒の働き 9章10~19節

6月23日だけでなく、8月6日、9日と、第二次世界大戦に関する日のことを覚えている中高生が、実に少ないと報道されていたことを思い出すのです。繰り返し、語り続ける必要性を感じるのです。私たちの教会では、毎年、この6月23日を「沖縄・命どぅ宝の日」として覚え、特別祈祷会を行ったり、また礼拝で、沖縄での学習ツアーの証を聴いたりして、共に祈りに覚えてきた歴史があることを知りました。今年は、ちょうど主日にあたり、特別礼拝として、共に沖縄のことを覚える礼拝にしたいと、女性会からの要望を受けて準備を進めてきました。

「沖縄の歴史を学び、いまこの時こそ平和をつくりだす者となるように」とは、毎月送られてくる沖縄6・23推進委員会からの祈り便に記されている言葉です。その歴史とは、過去の出来事だけではなく、今も、そこに住む人々の生活を縛り、覆い、脅かしている現実のことであります。私は、2006年、献身者研修会で、初めて沖縄へ出かけていき、国家が都合よく沖縄を利用し、都合の悪い時には捨てることの繰り返しを知り、いいしれぬ闇を感じて帰ってきました。

本日の箇所は、ダマスコで、すでに主イエス・キリストを主と信じた人々の中で、リーダーとなっているアナニアに、主の呼びかけが届いた場面です。主の召命は、彼を人々を迫害するサウロの所へ行って、手を置き、再び見えるようにすることでした。人間の考えでは、ありえない事です。迫害と殺人の只中で、主が働かれ、人を立てて、新しいことを起こされる。主の呼びかけは、いつも人を立たせ、導き出していかれます。平和をつくりだす者となるには、「主よ。ここにいます」と、応答していくことが必要なのでしょう。そこからしか始まってはいかないのです。