共におられる主 2014年5月4日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 1章18~25節

人は、自分には、何の原因も無いとしか言えないような不合理なことに遭遇することがあるのです。予期できない事柄に、向かい合うときに、どんな思いで、その場に立たされ、どうやって乗り越えていくのかは、その人の中心に何があるかによって左右されると言っても良いでしょう。

本日の主人公ヨセフにとって、許嫁のマリヤの妊娠の出来事は、新しい生活の夢を壊され、失意の中に放り込まれるような事件だったに違いないのです。ヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。と、聖書は記します。当時の婚約関係は、結婚と等しい重みを持った関係性を意味していました。 婚約には、正式な契約書が整えられ、それには、持参金の金額が記されていた様子です。ですから、婚外妊娠の事が表沙汰にされたら、律法によってマリヤは石で殺されてもしかたない状況だったのです。ヨセフは、誰にも相談することができないまま、神の前に正しさを貫き、かつマリヤをかばう方法として、理由を明らかにしないままで、離縁しようと決めたのでした。

しかし、この計画は、マリヤと、その胎内の命を置き去りにして、自分には関係のない事件として解決する方法でもあったのでした。眠れない夜を過ごすヨセフに、主の使いは呼びかけます。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」 主の使いの言葉を信じ、マリヤを信じ、「父となる」ことを選びとったヨセフは、まさに神の導きによって、新しい道を歩み出すものとされたのでした。

イエスという名前は、「主は救い」という意味を持ち、この小さな命の始まりが、神の救いの出来事の実現を現しているのです。インマヌエル(神は私たちと共におられる)を、受け止めるとき、切り捨てる関係性から、神の導きによって共に生きる関係性へと招かれている私たちを思うのです。