命の息の帰る場所 2014年8月10日 召天者記念礼拝

聖書 伝道者の書 12章1~8節

聖書は、神は人を、土地のちりで形造り、ご自身のいのちの息を吹き込まれた。そして人は生きるものとなった。と、記します。ですから私たちは、その息が取り去られた時を「死」と認識するのです。「死」という出来事が起きたときに、はじめてその人の人生は、どんなものだったのかを思い浮かべることができるのかもしれません。それまでは、いつも途中であり、新しい事を始めることも、今まで執着していたことから解放されることも、しようと思えばすることのできる時間があるということなのでしょう。

伝道者の書は、人の人生を「空の空」と語ります。それは、むなしいとか、無という考え方ではなく、まさに、気づいた今が、出発点であって、これから到達しようとすることができる可能性を感じながら語った言葉であるといいます。ですから、あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に(12章1節)に込められた著者の思いは、若い人々だけへの呼びかけではないのです。あなたの若い日、すなわち二度と来ることのない今日という日に、命の息を吹き入れてくださった主なる神を覚えて生きるようにと促しているのです。

伝道者の書12章は、「人生最後の日々」と表題のつけられた箇所であり、2~6節は、今も昔も、人が防ぐことのできない老化を、丁寧に描いています。老年期に入ると、活力を失い、喜びも健康も失われ、動作も鈍くなくことを、太陽、光、月、星、さらに雨をもたらす雲を用いて描いているのです。白髪が広がり、太りすぎて脚力が衰え、胃腸が弱くなって食欲がない老人たちを、アーモンド、いなご、風鳥木を用いて表していくのです。

私たちは、教会に連なる先輩の人生を振り返るとき、外なる肉体が衰えても、内なる魂が日々新たにされていた日々を思い、主と共に歩むことのできた幸いを分かち会いたいと願うのです。