平和をつくる者  2014年8月3日 平和祈念礼拝

聖書 マタイの福音書 5章9~12節

平和という言葉から与えられるイメージは、戦争や戦闘がなく、安心して暮らせる社会ではないでしょうか? しかし、「戦争は、突然始まったのではない。そこに至るまでに数十年もの準備が積み重ねられていた。」と、多くの戦争証言を聴きます。恐ろしいほどの流れの中に組み込まれ、「非国民」と名指しされるとき、教会もまた国家に飲み込まれてしまった歴史を振り返って思うのです。戦争のできる国へと舵が切られた今、私たち教会が、平和のために、どのような働きをしていけば良いのかを、真剣に考えなくてはいけないのでしょう。

聖書が「平和」、シャロームと語るとき、それは戦争がないということだけではなく、人間が生の全領域において望ましい満ち足りた状態をさします。主イエス・キリストが実現しようとされた平和は、当時のローマ帝国の支配体制下における見せかけの平和とは、根本的に違うものでありました。主イエスは、経済的な搾取や、宗教的抑圧によって、小さく弱くされた人々が、ひとり残らず解放される真の平和を求め戦い続け、殺されていったのでした。その生涯は、旧約の預言者が歩んだ道と同じものであり、主イエスの弟子たちもまた同じ道を歩んでいきました。キリストに従うわたしたちも、平和をつくる者として歩むために、神の国の実現のために、主の眼差しに支えられて働くことが求められているのです。

わたしたちは、教会で出会う子どもたちが大人になったときに、平和な社会で生きて欲しいと願います。本当の「幸い」に気づき、主イエスの歩まれた道をたどり、他者に仕えることができる人、すなわち神の御霊に導かれる神の子どもとして生きてほしいと願います。それには、まず大人たちが、そこに、義のために迫害されることがあったとしても、この世の主張である、お金があれば幸いである、あるいは武力があれば身を守ることができるという考え方からの決別が必要なのではないでしょうか。