喜びのバプテスマ 2014年6月8日 ペンテコステ礼拝

聖書 マタイの福音書 3章13~17節

一人の人が、主の呼びかけに応答して、「主イエス・キリストを救い主として信じ、生涯一緒に歩んでいきます。」と、告白し、バプテスマを受けることほど、喜ばしいことはありません。信仰のはじまりは、神様が、私たちを信じ受け入れてくださっていることに気づくことです。また、その告白によって、教会からバプテスマを受けるということは、「同じ信仰に加わるその方と、喜びも悲しみも、共に分かち合います。」と、教会員一人ひとりが応答するときでもあるのです。

主イエスも、自らガリラヤからヨルダンのヨハネの所に来て、バプテスマを受けようとされたと聖書は記します。バプテスマのヨハネは、懸命に思い止めようとしますが、主イエスは、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と語られるのです。聖書に記された主イエスの最初の言葉に、「正しいこと」、すなわち「義」を大切に実行しようとしていることを見るとき、神様が意思に従って生きる事こそが、人の正しい生き方であることを感じるのです。さらに、主イエスの公生涯のはじまりにも、「わたしたち」と語るべき、同じ信仰の歩みを共にする人々、集合体が備えられていたことを思うのです。

水から上がられた主イエスに、天が開け、声が届きます。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」これは、まさに神の御子イエスが、まことの神にして、まことの人にして、この世にこられたことを現す、喜びのバプテスマであったと思うのです。

バプテスマを受けた主イエスは、鳩のように聖霊が下ってきたことを証するのでした。弟子たちも、聖霊の力を得て、福音を語りだせたのは、主イエスの復活後50日目のペンテコステの日の事でした。現代のわたしたちもまた聖霊の働きをいただいて、この世で、神の意思を語り続ける者とされていかなくてはいけないのでしょう。