聖書 マタイによる福音書 5章9節
イエス・キリストを信じる教会は、どんなときも平和を造りだすように招かれています。しかし、現代社会に生きる私たちは、「平和」が大切なことと思っても、造り出す方法となると、とらえどころがないように感じてしまうのかもしれません。さらに、すぐには実現しそうもないほどに、遠くに見えてくるように思えます。だからこそマタイによる福音書の「山上の説教」と言われる中に、平和を造る人々は、幸いである(5:9)が記された背景と手渡された思いを受け止めてみようと思うのです。
「平和を造る人々」という言葉は、聖書の中では、この箇所にしか登場してこない言葉です。著者が深い思いをもって「平和」と「造る人(複数)」を合成した可能性も見えてきます。主イエスがこの世に遣わされた意味の中に、敵意という隔ての壁の取り壊し、戒めの律法の無効(エフェソ2:14)が提唱されていることとも重なりあった背景が感じられます。
相浦光教会では8月を平和月間として、平和宣言を交読し、また平和にかかわる賛美を歌います。この平和宣言交読文も、また聖歌隊が歌う「平和の祈り」も、一人ひとりの個人の責任で宣言し、賛美できるか?と、問われたら、なかなか難しいことかもしれません。しかし歴史からの問いかけに向き合うことをやめてはいけないのです。 また出来そうもないこととして、後回しにしておけば、キリストの体として、この世に存在する教会の意味も失ってしまうともいえます。
私たちが考えている「平和」ほど、多様性に満ちているものはないのかもしれません。まず自分が考えている「平和」を誰かと対話することから初めてみようではありませんか?家族、友人、親しい存在であっても、違った考えであることの発見にもつながるように思えます。耳を傾けることから「平和を造る人々」が、点から、線へ、そして広がりへとつながっていくのです。
神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです(ローマ8:14)