幸いな人 2014年7月20日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 5章1~12節

主イエスのもとに、さまざまな病気や痛みに苦しむ人々や、悪霊につかれた人々が連れてこられ、癒されていきました。そのうわさは人を呼び、多くの場所より、イエスに従う人々が起こされていきました。その人々の有様を見て、主イエスは口を開き、福音を語り出すのでした。なぜなら、病をいやされ、悪霊から解放された人々のほとんどは、イエスに従ってはこなかったと思えるのです。主イエスに従ってきた人々は、自分ではどうしようもない貧しさ、悲しみ、そして憤りをかかえ、主イエスの言葉に生きる希望を求めようとしていた人々であったように思えるのです。

本日の聖書箇所は、古くは、山上の垂訓、あるいは山上の説教といわれ、有名な箇所です。 実に何回も、「幸い」という言葉が連なります。私たちは、人として生まれ、たった一度の人生を幸福に暮らしたい、満足したいとと思うのです。しかし、何か「幸い」で、満足することができるのかは、追求しても、到達点を見出すことのできない難しさを感じるのです。主イエスが語る「幸い」は、人が追求して見出そうとする「幸い」ではなく、旧約の時代から語り告げられた、神からの「祝福」や、神によって与えられた「救い」をあらわすものであることを思うのです。

主イエスのみもと近くにいた弟子たちにとっても、主イエスの語る「幸い」は、その時点では、理解しがたいものだったと思えるのです。しかし、主イエスの十字架と復活の出来事を受け止めることができた著者マタイだからこそ、弟子たちが言い伝え、届けられた主イエスの言葉に、深く心を揺さぶられて、記していったのではないかと思うのです。

現代社会に生きる私たちは、「幸い」の価値が、様々で、多様な展開を見せていることを知っています。だからこそ、教会は、人格的な神との深い交わりを、「幸い」の中心に置くことによって始まる喜びと希望を語り続けていかなくてはいけないのでしょう。