聖書 使徒の働き 12章4~12節
いつも主イエス・キリストの事ばかり語る人々と、揶揄され、付けられたあだ名が、キリスト者(クリスチャン)です。 その人々が、教会(エクレシア)に集まって、心を合わせて熱心に祈り続けたことが、本日の箇所に記されています。なぜなら、そのリーダーの一人、ペトロは、過越の祭り、すなわち、自分たちの祖先が、エジプトの奴隷から救い出されたことを、喜び祝う祭りの日に、捕らえられ牢に入れられていったのでした。
使徒の働きの中では、使徒たちが、牢に投獄されて、主の使いによって、あるいは大地震によって脱出できたことが、何度も出てきます。しかし、そんな不思議なことは、起こるはずかないと、当人のペテロでさえも、思っていなかった様子です。まるで、子どものように、「急いで立ち上がりなさい」「帯を締めてくつをはきなさい」「上着を着て、私について来なさい」と、命じられるままに、外へと連れ出されていくのです。現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと感じていたのでしょう。ですから、我に帰ったペテロは、大勢で、祈っている教会の人々のところへ一直線に帰っていったのでした。
「祈祷会は、教会の原動力となり、船で言えば機関室のような所です。心を合わせる祈りに、神は応えてくださるからです。」と、言われます。いつも祈祷会では、祈りの課題として、実に多岐にわたる祈りの分かち合いをします。教会に連なる兄弟姉妹が、自分自身では祈ることさえできない状況であっても、教会は、その人のために熱心に祈ることのできる唯一の場所、そして人々なのです。教会は祈り続けるキリストのからだです。なぜなら、主がまず私たちの為にとりなしの祈りを絶えずしてくださっているからなのです。教会の祈りがあるからこそ、教会員一人ひとり、牧師も、その人々の祈りに押し出されて、宣教の場所へと遣わされ、また帰ってくることができるのです。