牢の中でも 2013年10月20日 主日礼拝

聖書:使徒の働き16章26~34節

ピリピの町に入ったパウロとシラスは、占いの霊に取り付かれた女を、イエス・キリストの御名によって、悪霊から解放していきます。しかし、彼女を金儲けの道具としていた人々の恨みと、それに煽動された群集によって、むちで打たれ、投獄されたのでした。真夜中の真っ暗な牢の中で、二人は、痛みの中で、とりなしの祈りと、神様を賛美し続けたのでした。同じ牢に捉えられた囚人たちは、いままでの殺伐とした呪いと怒りから、予想もできない穏やかな平安の中に、包まれていったのでした。

突然、大地震がおきて、獄舎の土台が揺さぶられ、扉は全部開かれ、つながれた鎖は、解き放たれてしまったのです。囚人たちは、逃げ去ってしまったと思い、看守は剣を持って、自害しようとするのでした。パウロの鋭い声が響きます。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」 パウロたちは、牢の中にいても、その心は、すっかりと主に委ね、解き放たれている自由の中で、逃げ出す必要もなく、祈り、賛美し続けていたのでした。しかし、看守は、与えられた仕事が、全てであり、その責任に縛られ、果たせない結果は、命の終わりを意味していたのでした。

「救われるために、何をしなければなりませんか?」との看守の問いに、パウロの回答は、ただ「主イエスを信じない。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」でした。すべき行いと態度を求める問いに対し、存在を喜び、主にある自由を示された時、看守と、その家の全ての人は、主のことばを受け入れ、バプテスマを受けたと聖書は記します。

家族を思い信仰に躊躇する人々に、また信仰者の家族につまずいている人々に、主にある自由とは、逃れることのできないと思う家族としての関係性も、また自由にされていくことを意味すると伝えていきたいと願うのです。いかなる場所であっても、神様の意思によって、出来事が起こされ、聖霊の風によって、みことばが届いていくのです。