聖書 マタイの福音書 7章13-14節
受験シーズンです。街に出ると、有名な高校、一流大学の名前と合格率が記された広告を見ます。この時期になると必ず登場するのが、この「狭き門」です。これは、皆が入りたいけど、入ることのできる人が少ない、すなわち競争率が高いことを表した言葉として用いられている様子です。また、人生の教訓として、厳しく辛い道と、安楽な道の選択を迫られたとき、楽な道を選ぶのではなく、自ら辛い道を選ぶことによって、本当に意味のある人生が送れると示すために、「狭き門」を用いているものも見ることがあります。確かに、「艱難汝を玉にす」という格言にもあるように、苦労することによってこそ、人の痛みも理解できるのかもしれません。
主イエスは、そのような門を「狭き門」として、人々に語ったのではないのです。この門は、人間の思いでは、誰も行きたくない門です。主イエス・キリストは、マタイ5章から始まる山上の説教を、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。で、一旦話し終え、その後に続く部分は、それを実行するための諸注意を語っておられるのです。ですから、狭き門から入りなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。のみ言葉は、迫害の中で、なんとか信仰共同体を保ち続けている人々にとって、大きな励ましになったと思われるのです。
私たちは、日々の生活で、選び取る道を前に、どちらが滅びに至る道で、命に至る道は、どこなのかを見つけ出そうと思うのです。しかし、どちらが、広いのか、狭いのかも、見える範囲でしか判別することができず、残念ながら、その先を見通すことができないのです。ただ、主イエス・キリストが先だって歩まれた道のみが、その命に至る道を示す手がかりであります。その道は、狭く、細く、一歩、一歩、私たちの前を歩む方に集中して後に従うときのみ、その道でしか得られない守りと備えを体験することができるのです。