聖書 ルカによる福音書 8章19-21節
この場面で、イエスの母ときょうだいたちが、なぜ大勢の群衆に取り囲まれている最中に会おうとしてきたのか? ルカによる福音書には、その背景となる部分を全て削っています。さらに同じ場面を描く他の福音書では「御心を行う人」と表現しているのに対して、「聞いて行う人」と言う表現を用いていることにも注目していきたいと思います。
種を蒔く人のたとえ、灯のたとえとつながった話の続きとして示されていくのは、やはり種である神の言葉の行方であり、実を結ぶことの重要性でしょう。さらにそれをどう聞くのか(8:18)が問題となっていくのです。
主イエスの誕生の場面では、心温まる家族を著者ルカは記していますが、実際の大人になって弟子たちと共に旅に続く旅をしているイエスを、家族たちはどのように受け止めていたのかは想像するしかないでしょう。しかし父ヨセフが早くに召されていたと言われていますから、長男である立場や家族を養うために働くことは、当然イエスに求められていくはずです。 また当時の宗教的リーダーたちに睨まれていることも気がかりであったことは考えられるでしょう。
わたしたちも同じように、自分の家族が大人になっても収入も得ないで宗教活動に邁進していたら心配になるし、リーダーと言われる人々に睨まれるような発言や行動があれば、やめるように働きかけもしそうなことです。どんな時代になっても、家族の問題は自分の問題にすり替えられ、そこには自分本位の思いや、自己保全の行動が伴っていくように見えます。
主イエスは、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人である」と断言していきます。しかし、肉の思いでイエスに近づき、拒絶されたイエスの母、さらにきょうだいたちが、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事の共同体の中にいることを見つけ出すことができるのです。わたしたちの家族もまた神の言葉を聞いて行う人としての再構築が求められているのでしょう。