私のところに来させなさい 2020年11月15日 主日礼拝

 

聖書 ルカによる福音書 18章15-17節

主イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた(18:15) 著者ルカは、子どもではなく、乳飲み子と言う表現を用います。この言葉は、ルカによる福音書では何度も用いられる表現で、著者が子どもよりもさらに無力で、誰かの保護の下でなければ生きることのできない存在として好んで用いているようです。誰でも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる(18:14)と言う言葉を受けて、最も小さいものという存在を強調したかったのでしょう。

当時は、子どもたちが成人へと成長していくのは決して当たり前ではなく、祈るような思いで、ラビ、先生に祝福してもらいたいと思う気持ちが強かったようです。子どもも乳飲み子も連れて主イエスに近づいた一行に向かって、弟子たちは叱って通させないようにするのでした。当時も、もしかしたら現代でも、女、子どもは、ありがたい先生の話を聞く必要がないという判断が下され、遠ざけられていく背景を見ます。しかし、主イエスは乳飲み子たちを呼びよせて「子どもたちを私のところに来させない。妨げてはならない。」さらに「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできない。」と語られるのでした。

子ども祝福式を教会で行うことに対しては賛否両方の意見を聞きます。その時だけ礼拝に参加しても、子どもたちに御言葉が届くことはないと言われれば、そのようにも思えるし、一方で、どんな時も、子どもたちが御言葉に触れるチャンスとして用いたいという意見もうなずけるように思えます。家庭生活のすべてが、まさに主なる神を崇め、律法に即した日々を送っていた人々と、現代社会とを比べるのは無理があるでしょう。しかし、子どもたちが主イエスの恵みや神の愛に触れることができるには、大人の助けがなくてはなりません。自分たちの都合で、子どもたちが主イエスのところへ来ることを妨げていることのない者として歩んでいきたいと願います。