義と平和 2020年8月16日 主日礼拝

聖書 詩編85編9-14節

詩編85編が記された背景には、長く続いた捕囚生活からようやく解放され帰還した民が、多くの困難と難題に直面し、エルサレム神殿再建までに25年もの歳月を要したことが挙げられます。ですから神への嘆きと救いの懇願をささげる民にむかって、預言者が語る神からの希望の言葉とも言われています。

主なる神が何を語られるかを聞こう。主は平和を語られる(85:9) 預言者は、民にむかって、まず神の言葉に耳を傾けることの重要性を示します。また神に信実な者として、信頼なく生きる愚かさへと戻っていかないように警告していくのです。主が語られる「平和」こそが、真の平和なのです。現代に生きる私たちも「主の平和」を求めつつも、一方で自分なりの都合と時間での「平和」を期待しつつ、どこかぬるま湯にいるような甘さと不確かさの中にいるのかもしれません。

慈しみとまことが出会い 義と平和が口づけする(85:11) 「慈しみ」「まこと」「義」「平和」この一つ一つの言葉が旧約聖書の様々な場面に見つけ出すことができます。 この詩編では、この一つひとつの言葉に、人格や意志を持たせて、かつ緊張関係の中で行動する存在として描きます。この中で慈しみ(ヘセド)は、罪を繰り返す愚かな人間への赦しと救いをもたらす契約の神の愛を示します。そして究極的に向かう「平和」(シャローム)こそが 神の国の完成なのでしょう。

聖書の中を貫く「平和」とは、戦争の反対として単に争いが無いということではありません。この言葉を受肉して生きられたイエス・キリストが、示された「主の平和」こそが、真の平和と言えるのです。しかしその言葉を受け入れ、従って生きる者には、預言者と同じように、抑圧される側に身を置き、かつ声なき声を救い上げるような困難で厳しい道が待ち受けています。8月に交読文として用いる「平和宣言」が、自らの宣言となるように、吟味し、主イエス以外のものを断念する信仰へと歩みたいと願うのです。