聖書 ルカによる福音書 6章43-49節
主イエスの「平地の説教」のまとめの部分です。これを聞いているのは、主イエスの言葉を聴いて、従っていこうとしている人々です。敵を愛し、人を裁くなという主イエスの言葉を聴いた人が、どのような発言をするのか?またどのような行為をするのか?が問われてきます。「聞いて行う人」とは、どうゆうことかが示されていきます。
まず、良い木は悪い(腐った)実を結ばず、悪い(腐った)木は良い実を結ばないという一対の言葉は、旧約の時代から、神の祝福を示すいちじくやぶどうの実が、決して茨や野バラからは、生まれてこないことへと展開していきます。さらに、人間の口からあふれ出るものを、心の中にある良い倉から良いものを、そして悪い倉から悪いものしか産み出されないことを示していくのです。
イエスを自らの救い主と信じ、従っている者の語る言葉には、主の働きかけと励ましを喜ぶ「証」があふれ出ていきます。どんな成功物語も、人情噺も、この「証」の前には色あせていきます。それほどに主イエスが共にいて、その人の心の倉を良いもので満たしていてくださるからです。
次に、主イエスの言葉を「聞いて行う者」と「聞いても行わない者」の対比を家と土台をもって語られるのでした。もちろん、これは家の建て方や防災治水の話ではありません。著者ルカは、ギリシャ人たちの家の建て方を想定し、さらに教会が人によって立て上げられることを思いつつ、記しています。 どんな想定外の出来事に見舞われても、主イエスの言葉に土台を据えて生きることこそがいかに豊かな有意義なものであるかを示しているたとえです。さらに、終末の出来事を見据えて語られているとも言えるでしょう。
主イエスは、「私の母、わたしのきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と宣言されました。 「主よ。主よ。」とよびかけながら、なぜ私の言うことを行わないのか」と問われる主イエスに応答して生きるものとされたいのです。