聖書 エステル記1章16~22節
エステル記を、物語として受け止める時、実に面白く、アラビアンナイト(千一夜物語)にも通じる要素が見受けられます。 そして、どこを探しても、具体的な神様の名を見ることがない物語です。だからこそ、そこに登場する人間の中に、現代の私たちに共通する姿と、隠れて働かれる神様の存在を、感じることになるようにも思うのです。
本日、取り上げるエステル記1章は、これだけ長い前置きが必要なのだろうか?と思うほどに、大ペルシャ帝国の大げさな祝宴と、そこに君臨する王と、側近たちの会話が連ねられています。 夫婦のトラブルが、側近たちの仕組まれたシナリオによって、その国のすみずみにわたる法律になってしまった有様を見るのです。
血の繋がりから、一番遠く、そして関わり合いの中で、一番近い夫婦の関係には、その当事者でしか伺い得ない思いが行き交ってほしいと、人々は願います。 しかし、この場面では、人間の尊厳さえも無視された王妃の必死の抵抗までも、利用していく力を見せつけられていくのです。 残念ながら、私たちを取り巻く社会において、仕組まれたシナリオによって、今またその力によって、法律が変えられようとしているのかもしれません。
聖書の語る神は、創世記のはじめより、「人が、ひとりでいるのは良くない。ふさわしい助け手を造ろう」と、向かい合う存在の必要性を語られます。 人が人として生きる、自分らしく存在するためには、関係性の中で、生きることが重要なのでしょう。 その関係性に亀裂が入り、力のみでの、支配する側と、支配される側になったとき、社会が崩壊し、虐げられ、痛めつけられて行く人々が生み出されていくのです。 唯一の神は、すべての人が救われて、真理を知るようにと望み、神と人との仲介者は、キリスト・イエスのみと言われる方であります。一人ひとりが自分らしく生きるために、教会は、社会の出来事の只中で働かれる主に、祈りを続けていかなくてはいけないのでしょう。