2022年10月2日 主日礼拝 神と富

聖書 ルカによる福音書 16章1-13節

この箇所は、主イエスが語った部分(1-8a)と、ルカ共同体の注解(8b―13)が並べられているので、まとめて受け止めること自体が難しい箇所です。特に後半は様々な弟子たちの理解が記され、前の節に対して応答するように節が積み重ねられています。今回、主イエスがたとえ話で語られた真意と著者ルカが最後にまとめた神と富に仕えることはできない(8:13)に注目してみたいと思います。

このたとえ話で最も不正を働いているのは、金持ちの主人です。不当な利率で金を貸し、返せない小作人の借金を理由に土地を取り上げて権力と富を手に入れていた人です。主人に借りのあった人々の申告を見ると「油100パトス」「小麦百コロス」となっていて現代の金額で計算すると一千万円以上の金額となり、一年間で返せるような借金ではないことが分かります。この金持ちに仕える一人の管理人が主人公です。ところがこの男が主人の財産を無駄遣いしていると告げ口する者がいたのでした。無駄遣いという言葉は、「散らす」「ばらまく」という意味を持ちます。この管理人は主人に内緒で手心を加えて借金を減らしていたのでしょう。主人から見れば不正な管理人となるわけです。

自分の仕事を取り上げられることを予測した管理人は、主人の借りのある者を一人一人呼び出して証文を書き換えさせるのでした。彼は自分の財産を守ることではなく、共に生きる道を探したのでした。彼が主人の財産をばらまく行為をすることで、巨額な負債を負った人々や、告げ口をした人々とも連帯が生まれてくることが記されているのでした。

聖書が神と富に仕えることができないとくり返し語る背景には、主イエスの周りを囲む人々は貧しく搾取され、抑圧に喘いていた人々であったことを知っておかなくてはいけないでしょう。現代社会にいきる教会が機転を働かせて不正な富をばらまくことができたなら、主イエスは賢いやり方を誉めてくださるでしょうか?