聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章1節
教会で暦には「建国記念日」とあるものを、「信教の自由を守る日」として、共に礼拝を献げていくことは、世間に流されない自覚的信仰が求められます。聖書に登場するイスラエルの民も、そして主イエスを主と告白するキリスト者も、大きな力の前で握りつぶされそうな共同体でした。そこに描かれた人々が創造主なる神を、贖い主なるキリストを告白し、自覚的信仰の中で希望を持って生きてきた証が記された書とも言えるでしょう。
ガラテヤの教会は、パウロが去った後に、ユダヤからの侵入者たちの主張によって混乱が生じていました。彼らは異邦人に対して、割礼を受けてユダヤ人となって、律法を守らなければ救われないと、強く迫ってきたのでした。そのことに対して、パウロは憤りとしか思えないほどの強い口調で手紙を記します。そこからは、主イエスを主と告白することは、律法からも、そして罪による死からも解放されて自由であることを示しています。「キリストは、この自由を得させるために、私たちを解放してくださった」と、パウロは断言するのです。
当時の社会の中では、自由人と奴隷とが対照的な立場として生きていました。主人に従い、主人の要求にこたえ、家族も皆死を迎えるまで奴隷の鎖から解放されることは難しい状況でした。しかし、衣食住の全てを賄って、安心感の中での生活でもあったのでした。自由人は、自由であるからこそ、その行動や発言は、全て自分の責任であったわけです。
主イエス・キリストを信じて、信仰者として生きることは、人の言葉に従って生きるのではなく、神の自由に導かれて生きることを意味します。バプテストの創始者たちも、またこの国で信教の自由をないがしろにする為政者たちに対して立ち上がった先達たちも、各々の自覚的信仰をもって発言し、行動していったのでした。現代社会に置かれた教会が地の塩、世の光として、目を覚まして生きていくことを分かち合っていきたいと願うのです。