聖書 コリント信徒への手紙一 12章1-3節
ある日、ある時、ふと信じている自分に気付き、「イエスは主なり」と告白するのです。ある人は、喜びに満ちた顔を持って、またある人は、疲れ切った面持ちで、信じることが始まっていくのです。それは決して不思議な経験とか、何かを見たということではなく、説明のできない、自分の力ではない働きによって、変化が起こされたという事実なのです。
バプテスト教会は、幼児洗礼を退け、自らの告白を大切にし、礼拝だけでなく、教会学校での学びを熱心に奨励してきました。そこには様々なリーダーが存在し、その信仰生活が証されてきました。日本バプテスト連盟の50年前は、いたるところにSBC宣教師がいて、信仰者としての歩みを証してくださっていました。その当時の教会では、新しい信仰者、新しい教会を生み出していくことが、「神の国」を作り上げる目的にもなっていたように思えます。しかし、教会内外の出逢いを通して、片隅に追いやられている人々への主イエスの視線や、現代社会の中に生きる神の働きを見つめ、多様性に富んだ様々な教会生活が広がってきました。
それぞれの信仰の在り方が違っているからこそ、それぞれの教会に信仰告白が整えられ、教会の使命の重要性が問われてくるのです。初代教会が始まった頃は、私たちの想像を超えて民族、言語、ジェンダーなど、とても一致できそうもない人々の集まりであったことでしょう。そこに聖霊の働きが下り(使徒言行録2章)、「イエスは主なり」と告白する群れとされていったのでした。
私たちの「命」の初めがあるように、信仰生活にも始まりが与えられています。一人の人の信仰の歴史を振り返ってみるときにも、様々な出逢いによって「神の国」のイメージが変化してきたことに気付くはずです。私たちはいつも途上を生きる信仰者として「イエスは主なり」以外は一致することがないのかもしれません。神の導きに従い、変化を恐れず、共に礼拝し、互いに尊重できる関係性を持ち続けるところこそが教会なのです。 *SBC 米国南部バプテスト連盟