聖書 ハバクク書 2章3-4節
召天者記念礼拝は、既にこの世の命を終えて、主なる神の領域に移った信仰の先輩たちの歩みを覚え、私たちの命を与えてくださった主なる神を礼拝することを目的としています。様々な一般記念行事の中で行われる慰霊とは、まったく違ったものです。教会の歴史の中に、神に出会い、神を信じ、救いの御業を受け入れて永遠の命を約束された信仰者が、与えられたことを感謝する時でもあるのです。
正しき人はその信仰によって生きる(2:4b)という御言葉は、使徒パウロによって紹介され、多くの初代教会に語り伝えられていきました。神の義が福音の内に啓示され(ローマ1:17)、律法によっては神の前に義とされず(ガラテヤ3:11)、さらに信じて命を得る者(ヘブライ10:38)を語るために用いられてきました。この言葉はハバクク書から引用されたものです。
多くの預言書には、神からの言葉を預かった預言者が、人々に語る言葉が記されています。ところが、ハバクク書は預言者が神に訴え、それに対して主が答えてくださる言葉が記されています。 ハバククは主にむかって、主よ。いつまで助けを求めて叫べばよいのですか(1:2)と、訴えます。さらに主が自分たちの民を裁くためにカルデア人を興されたとしても、だからといって諸国民を容赦なく殺しても良いのでしょうか(1:17)と、くいさがります。このようなハバククの訴えに対しての主なる神からの答えが2章に記されています。主は定めの時、終わりの時について告げる「幻」をハバククに与え、板の上に記すように命じます。
私たちは厳しい状況に置かれたときに、関係性が破綻したときに、主なる神にむかって祈ります。しかし、どこかに自分が納得のできる速やかな解決を望みつつ祈っているように思えます。神の時は必ず来ると主は約束してくださいました。たとえ遅くなっても待ち望み、正しい人として信仰によって生きることを改めて受け止めていきたいのです。