聖書 箴言4章23節
古代エジプト人が、死者をミイラ化する際に「心臓」を別格に扱ったように、箴言が記されて時代もまた「心臓」には、特別の思いを持っていたようです。すなわち、その人自身の「命」、喜怒哀楽、意志や決断の源として「心」が宿っている場所と考えていたのでした。現代社会において医学が進んで、私たちは生殖医療や生命倫理、「命」と「心」を人任せにすることのできない時代に生きています。一つの「命」の誕生を巡る大人の事情も多様化しています。この極めて難しい難問にむかわざるを得ない状況の中でこそ、創造主なる神に向かうあうことが必要になるのです。
主を畏れることは知識の初め。無知な者は知恵も諭しも侮る(箴言1:7)と、箴言には当時の賢さや健康を保つために必要な格言や教訓が記されています。健康な体を維持するには、日々の生活の中でバランスの取れた食事や適度な運動が求められます。同じように「心」を保つために、聖書は御言葉(私の言葉)に思いを向け、耳を傾けることの重要性を語ります。それも日々の生活の中で繰り返し御言葉に触れることで、神の御旨に従って生きることが実現していくのです
守るべきものすべてにも増して、あなたの心を保て
油断することなく、力の限りと翻訳されていた言葉が、すべてにも増してと、より強調され、「心」を保つためには、他のことは見捨てても、辞めても実行するように促します。
命はそこから来る
主なる神は土の塵で形造った人に命の息を吹き入れて生きる者をお造りなりました(創世記2:7)神からの命の息によって生きる者が「心」を失ってしまえば形だけの人となってしまいます。
現代社会では、優れた、強い、迅速を選ぶように仕組まれ、自分の力や能力で解決できる錯覚に陥らされていきます。そしてその仕組みから脱落すると自己責任が問われるようになっています。私たちが人生の岐路に立つとき、「心」を保つために、何を選んでいくのかが問われているのです。