聖書 ルカによる福音書 9章43a-45節
私たちが信仰告白をしてバプテスマを受けるに至った経緯を思い出すとき、そこには、自分の努力や熱心とは違う力が働いていたことを思うのです。様々な選択肢から教会を選び、自分の人生の中の出逢いとして受け止めるまでに、多くの祈りと自分では予想もできない支えがあったことを振り返るのです。さらに試練や誘惑に揺さぶられた時もなお、誰かの祈りと熱心な働きかけがあったからこそ、つながり続けていけたことも思うのです。
弟子たちが「神のメシア」と答えたからこそ、主イエスはご自身がむかっていく道を示されたのでした。しかし弟子たちが理解できるまでには、様々な出来事と、誰にもいいたくない闇の部分をかかえていたはずです。復活の主が、ひとり一人をもう一度探し出してくださったからこそ、ひとり立ちして歩みだせたのでしょう。
主イエスはご自身の向かう道を何度も弟子たちに語っておられたのでした。福音書は3度の死と復活の予告が記されていますが、さらに繰り返し語られていたことが考えられます。「人の子は人々の手に渡されようとしている」と、語られた主イエスの言葉を、弟子たちは理解することができなかったのでした。「渡される」という言葉は、自分から積極的に行動される意味はありません。実際の所、律法学者やファリサイ派の人々の妬みをかい、イスカリオテのユダによる裏切りなどを思い浮かべますが、さらにつながりとして見ていくときには、主なる神のご計画を感じることになるのではないでしょうか?
コロナ感染予防のために、今週からまたリモート配信を優先して礼拝を持つ方法へ変更しました。繰り返される感染再拡大によって長期にわたる自粛が求められています。この出来事もまた、主なる神のご計画であると信じるとき、いまだ見えてこない「隠された言葉」の向こう側にどんな風景が待ち受けているのでしょうか?「わたしに従ってきなさい」と言われた方は、必ず再び来てくださると約束された方であることを覚えていきたいものです。