2021年8月29日 主日礼拝 命  車相龍

聖書 ヨハネによる福音書 1章1-5節

皆さんは本日の宣教題をご覧になった時、どのように読まれたでしょうか。「いのち」か「めい」か。訓読みと音読みの二者択一ではありますが、どちらを選ぶかによって、この一文字のメッセージ性はかなり異なるものになってくるようにも思えます。しかし、「めい=いのち」。これこそ、本日の宣教題になった一文字が指し示す真のメッセージです。

本日の聖書箇所は、創世記1章を思い起こさせます。そこには、初めに神様が言われたことで天地万物が創造され、命が宿る様子が描かれています。ヨハネは、ユダヤ人やユダヤ教徒になった異邦人であればだれもが分かる天地創造の叙事にちなんで、 “神様の御子キリストは誰なのか”という根本的な問いかけに対して、神様の究極的な自己表現である「言」が「肉」になったイエスこそその方であると証言する伝道の砲門を開いたわけです(ヨハネ1:14)。天地創造は言の働きであり、それへの絶対的な従順の成就ですが、言の働きが絶対的な従順をもたらす「命(めい)」になれる理由は神様が「主」であるからです。神様が主である時、言は命(めい)になりますし、それに従順できるように言の内になった「命(いのち)」が働きます。ここでいう命(いのち)は神様との関係(ゾーエー)であり、単なる呼吸(プシュケー)や活動(ビオス)の意味ではありません。だからこそ、命(いのち)は世の人の光であるわけです(ヨハネ1:4)。なぜならば、言が命(めい)にならず、だから命(いのち)が働かない世はいくら光が輝いても理解しない闇であるからです(ヨハネ1:5、新共同訳)。

自然に呼吸でき、バリバリ活動していても、神様との関係が働かない世人の生き方には、光が理解できなく、暗闇に包まれた悪からの救いはありません。言が命(めい)になり、その内になった命(いのち)が働く人の生き方にこそ救いがありますし、それは言が肉になったイエスが主であることを告白することから始まります(ローマ10:9)。だから、言は悟るものではなく、出会うものです。日々言に出会いつつ、「めい=いのち」の祝福が溢れる一週間になりますように。