聖書 ルカによる福音書 11章24-28節
聖書に登場する悪霊は、人間にとって不都合なことを起こす総括的な存在として用いられていたようです。 悪霊の特徴としては、汚れた霊は自分だけでは生けないで、何かにとりついて生きていこうとします。極めて良いと言われた人にとりつくと、肉体的に精神的に不具合を生み、関係性も病んでいくことを見ます。さらに悪霊は、主イエスの神の指が働くところには、自分たちの未来はないことを知っているのでした。
主イエスは、ベルゼブル論争に後に、汚れた霊が人から出ていった「その後」について語られました。彼らは取りつく場所を探して水のない場所をうろつき、「出てきた我が家に戻ろう」と言うのでした。 悪霊にとって人の心が一番居心地の良い場所、「我が家」なのです。 帰ってみると、掃除して飾りつけがされていた。と、いいます。 以前より住みやすくなった家には、彼らがそこに戻ることを阻むものは、何もなかったので、喜んで仲間の悪霊も呼び入り込んでいくといいます。
主イエスが批判的な態度をとる人々にむかって「神の国」を語られることを聞いていた一人の女が「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と、声を張り上げます。しかし、主イエスは「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」と言われるのでした。
心の中にとりついた悪霊は追い出されたとしても、また戻ってくる可能性があること、またそこに何も住んでいないことはさらに危ない状況が起きうることが語られたのでした。何も住んでいない状況とは、目に見える存在に幸いを求め、自分だけで生きていけると思う心でしょう。主イエスはその人の心の中に注目されます。主イエスに出会い、信じていくことこそ、誰もが抱える闇に光が照らされ、神の栄光を悟る光が与えられたことになります。使徒パウロは「この宝を土の器に納めています(Ⅱコリント4:7)」と記していったのでした。