2022年6月12日 主日礼拝 私の弟子

聖書 ルカによる福音書 14章25-33節

ファリサイ派の議員の家で食事が終わった後、大勢の群衆がご自身に付いてきたので、主イエスは振り向いて語られたのでした。この箇所には「私の弟子ではありえない」という言葉が三度も繰り返されます。

まず、父、母、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者と言われるときに、その強烈な言葉に戸惑ってしまう私たちがいます。家族、また命も創造主なる神から与えられたもので、主イエスの言葉に真意を問いたくなる私たちがいます。次に、自分の十字架を負って、主イエスに付いて来るものと言われたときに、この自分の十字架とは何かと思いを巡らす私たちがいます。最後に、自分の財産をことごとく捨て去る者となると、いったいどうやって生きろというのかと挑みかかっていきたくなる私たちがいるのです。そして、こんな条件を付けられたら、自分は弟子にはなることは無理だと思うのです。

そこにいる大勢の群衆は、自分のために良いことが起きるに違いないと思って、主イエスに付いていったのでしょう。この国では、戦後まもなく膨れ上がるように人々が教会を訪れ、ある教会では礼拝ごとに数十人のバプテスマがあったといいます。しかし、潮が引くように消えてしまったようです。信仰生活を継続するには覚悟がいるのです。自分の人生において「イエスさまが一番」にならないと続けることは難しいのです。主イエスに従うとは、自分にとって最も大切なものさえも断念することで、それによって全てのものからの解放が与えられていくわけです。

著者ルカはその間に2つの話を付け加えています。一つは塔を建てようとするとき、そしてほかの王と戦いを交えようとするとき、ここでは聞いている群衆にも、現代に生きる私たちにも至極当然の考え方が示されていきます。ここでのキーワードは「腰を据えて」です。どんな場合であっても途中で挫折したり、打ち負かされてしまう前に、それなりの覚悟が必要であると主イエスは語るのです。