聖書 使徒の働き 2章1-4節
一人の人が、神様からの呼びかけに応答して、自らの言葉で、信仰告白を語り、バプテスマを受ける。教会の歴史の中で、待ち続けた人々が、こぞって喜びの中に満たされる出来事であり、どうしてこの時なのか、誰も知りえない時でもあるのです。幼い時より、教会の集会に集い、交わりの中で、成長し、今、「主イエス・キリストを、わたしの主と信じます。」という告白に至る時が、満たされた瞬間なのです。聖書の時代ではなく、現代の私たちが、その声を聞き、水に浸される有様を目にすることは、神様が起こした奇跡としか言うことができないのではないでしょうか?
教会のはじまりを祝うペンテコステの礼拝を捧げる日に、まさに新しいメンバーを教会に向かい入れることのできる幸いを感じます。信仰告白を聞き、相浦光キリスト教会の教会員として受け入れることに挙手を持って賛同するということは、一緒に歩むと言う教会側の応答の告白でもあるのです。
主イエスを見捨てた事を痛み、弱くみじめな自分と向き合ってきた使徒たちが 寄り添って、一つになっていると、天から激しい風が吹くような音が響き、炎のような舌が、一人一人にとどまり、聖霊に満たされて、大胆に語りだす力をいただいていくのです。
聖霊とは、「風」「呼吸」と同じ語源を持ちます。神様は、土地のちりで人を形造り、その鼻に命の息をふき入れられ、人は生きたものとなったと、聖書は語ります。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事の前に砕かれ、自らで満たしていたものを捨て去る時、聖霊は注ぎ込まれ、満たされていくのです。神様より命の息を受け、復活のイエス様に出会い、聖霊に満たされるとき、人は、力を得て、語り出すことのできる者へと変えられていくのです。そこにこそ、キリストを頭とした、平和のきずなで、結ばれた教会が誕生していくのです。