語り続けなさい 2013年11月10日 主日礼拝

聖書:使徒の働き 18章1~11節

パウロは、コリントにたどり着いたとき、衰弱していて、恐れにとりつかれ、ひどく不安だったと、記します。アテネでの宣教で、あざ笑いの対象になったり、「またいつか」と避けられたりする経験は、パウロを失意の中へ落としていったのかもしれません。さらに、このコリントの町でも、ユダヤ人たちに、口汚くののしられたことも、影響していたと考えられます。人々の中で、確信をもって語り、指導的な立場にいるパウロであっても、弱くされていた部分を感じる場面であります。 自分の信じる言葉を受け入れられた事より、そのことによって反抗され、不愉快な思いや経験をしたことを覚えていて、落ち込んでいくことが多いのが、私たちなのでしょう。

「あらゆる刺激が溢れ、その中で、仕事に追われ、疲れ果てた日本人は、退屈で、疲れる場所に毎週通うほどの余裕はない」という言葉に出会いました。礼拝で行われる宣教は、教会に集う方々に、み言葉を通して力を与え、普遍的な真理を語り続けているのかと問われるだけで、うずくまって胃が痛くなるほどに緊張する働きと言えるでしょう。 準備しても、語ることを止めてしまいたくなるほどに恐れにとりつかれ、不安になる事ばかりであります。ですから、幻を通して、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたと共にいるのだ。」と、主の声を体験できたパウロは、実に力を得ただろうと思うのです。

教会の礼拝で行われる宣教とは、語る牧師だけでなく、それを受け止める人々にも、共にいてくださる主がおられ、主が働かれることに、確信をもって委ねられるかどうかなのかもしれません。同じ過ちを繰り返し、小さなことで、落ち込んでしまう人間の弱さとおろかさを、共に傷んでくださる主イエス・キリストの先だつ導きがあるからこそ、大胆に語ることが赦されているのです。幻は語り続けます。この町には、私の民がたくさんいる。