主イエスに従う 2014年7月6日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 4章18~25節

ガリラヤ湖で網を打っていた、ふたりの兄弟、ペテロとアンデレは、主イエスの「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」という言葉に、網を捨てて、すぐに従ったと、聖書は記します。別の兄弟ヤコブとヨハネは、主イエスの呼びかけに応じて、舟と父を置いて、すぐに従ったと記されています。当然、彼らには、日常の生活があり、漁師という職業、生活の糧を得るための舟、そして家族があったのでした。そんなに急いで従わなくても、それなりに後のことはよろしくとか、お願いしますとか、必要ではなかったのか?とも感じるのです。しかし、彼らは、言葉による信仰告白もなく、すぐに従ったことをみるとき、招かれた方が、まさに主イエス・キリストであったからこそ、そこにすぐに従う行為が起こされたことを思うのです。

私たちの生活の中でも、大雨が降り、避難勧告が出たら、即刻、その日常から、切り取られるようにして、立ち上がっていかなくてはいけないのではないでしょうか? まさに、主イエスの招きは、その人の命の出来事なのです。しかし、私たちは、この招きは、信じられるのかを問題にして、立ち上がろうとせず、その一歩を踏み出そうとしないのです。一歩を踏み出したときにこそ、信仰は与えられ、現実の輝きを持って生きるものへと変えられていくことを知るのです。

主イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直されました。この出来事を聞いた人々は、色々な病気や苦しみに悩む者、悪霊につかれた者など、あらゆる重荷を抱えた人々を、主イエスのみもとへ連れてくるという行動をおこすのでした。ですから、キリストを頭とする教会は、主イエスに従う人々と共に、御言葉が教えられ、福音が宣べ伝えられ、多くの病や苦しみの中にある人々に出会う場所とされていかなくてはいけないのでしょう。